2012年ナゴミカルな出来事まとめ【前編】

山中史郎さま

昨年12月、井原市役所企画課と農林課に企画書を提出してきました。

ナゴミカルは、井原市にワイン特区を国に申請するよう申し入れました。市はぼくらがやろうとしていることを文書にして示すよう求めてきました。その文書の内容をみて特区を申請するかどうかを考えると。

特区の受付は1月と聞いていたので、もう連絡があってもいいのですが、今のところ何もありません。

その企画書では、この1年間で経験したことを踏まえて言葉を書き連ねました。

【概要】青野ワイナリー構想
【詳細】『ぶどうの里100年』に向けて −〈青野ワイナリー構想〉のための考察

ぼくは、この1年間、地域の関係者と話をする中でまさに「地域」の観念をめぐったように思います。関係者といっても、結局、実際に関係をもつには至っていないけれども。それはつまり「地域」の観念を共有するに至っていないということにもなるのかな。

自分が地域とどのようにかかわろうとしているか、自分には地域がどのように見えているか。

地域の観念を共有することがワインを作ることの前提なのか、逆にワインを作ることが前提なのか、ワインを作ることと「地域」の観念を共有することがコインの両面なのか。

ま、本来そんなこと、勝手にしやがれってことなんだと思いますが、ま、お互い無関心ってのもよろしくないわけで、ま、とりあえず、ごあいさつはできたかなと。

ま、これからですね。

というこで、この1年間(思いつきからは2年がたってますが)を振り返ってみようと思います。

2011年1月 思いつき

ぼくはこのぶどうの産地である青野で、ワインを作ったらどうかと思い立ちます。地域住民としての思いつき。それまでぼくはこの地域で「ぶどう以外」の生き方を模索して来ました。小麦作って、パン焼いたり。でも「あえてぶどう」にいかなきゃならないと。家から「地域」に一歩出るには「あえてぶどう」がいいと。ここの人々はぶどうという眼鏡をかけて「地域」を見ている。ならばぼくもその眼鏡をかけてみようと。

2011年8月 ナゴミカルなはじまり

ナゴミカルは、史郎がfacebookに投稿した写真のコメント欄でのやりとりがすべてのはじまりでした。初心忘るべからず。これ、消さないで残しておいてくださいね。
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=243597659004038

で、まもなくfacebookに「青野で地ワイン!」という非公開のグループを作りました。

2011年12月 ぶどう農家と忘年会

市販のワインと手作りのピザで忘年会を企画し、井原市JAぶどう部会の幹部農家さんを招いてお話を伺いました。礎会という若い農家さんの集まりの会長ご夫妻、Uターンしてぶどうを始めようとされている方も来てくださいました。

青野にぶどうがたくさんある。その一部を青野でワインにしてはどうかと。で、帰ってきた最終的な答えは、

「自分たちでぶどうから作って、ワイナリーも作って、そうしてワインにするなら誰も文句は言わないだろう」

ぼくははじめこの意味することがわかりませんでした。「青野にぶどうはたくさんあるから、じゃあ次はワイナリー作らないとね。ワインはどうやって作るの?」という返事がくると思ってたんです…。青野という産地を産地たらしめている農家のぶどうは、簡単には使わせてもらえない。何やら複雑な大人の事情が見えました。

ま、青野でワインを作って、青野にそれを楽しむ場所を作る、実現したら「いいね!」という共感は得ました。

2012年2月 廃園にするぶどう畑をゲット

それで、ぼくらはその返答を真に受けて、じゃあ、ぶどう農家になろうということになりました。それ以外に道はないだろう、と、多分。

たまたま、古いマスカット・ベーリーAのぶどう畑を廃園にするという農家が近所にいて、ぼくらの計画も話して、好きに作っていいことになりました。実にあっけなく、ぼくらはぶどう農家になれることになりました。が・・・。

2012年3月 行政、JAを交えた新規就農に関する会合

お金がない。既存の仕事を持ちながら、農家の仕事も進めていかなきゃならない。そこで渡りに船。どうやら行政から新規就農に対する支援が受けられるかも、ということで、じゃあお願いしようと。

ぼくらが受けようとしたのは国(農水省)が2012年1月に始めたばかりの青年就農給付金というもの。
〈準備型〉と〈経営開始型〉の2種類があります。〈準備型〉は就農前の農業技術の研修期間中の給付金、〈経営開始型〉は農業を始めて間もない時期の給付金。

ぼくらは農業技術について確かなものを何も持っていないけれど、すでに農地を確保したので〈経営開始型〉で申し込みます。〈経営開始型〉の給付金を受ける条件は、地域(集落)農業の担い手(中心経営体)として「地域」に認められる(=「地域」の話し合いで「人・農地プラン」を作成しその中心経営体のリストに名を連ねる)こと。中心経営体とは、これから5年間で規模拡大を計画している農家ということ。

ぼくらの活動拠点は青野町の仁井山地区。高齢の農家ばかりで、ぼくら以外に規模拡大なんてしようと考えている農家はいない。だからどんなリストになるのか簡単に想像がつきます。

井原市農林課にこの支援を受けたいことを申し出て間もなく、ぶどう部会幹部の方から連絡があり、会合を開いていただきました。JA、県の普及センター、井原市農林課、井原市JAぶどう部会から各数名ずつ、いわゆる農業関連組織との初顔合わせです。

ぼくらは正直に「農業もワイン造りも、あるいは飲食店経営についても、当然これからはじめる素人ですが、「食」と「文化」で青野の地に人を引き込む農業をして「ぶどうの里青野」の地域ブランド再興を目指します」と述べました(のちにそういう事業のことを一般には6次産業と呼ぶことを知りました)。

しかし、

「農業の実績なし、飲食店経営もなし。それでは〈経営開始型〉は難しい(=「地域」に認められない)のではないか」
「慣行農業をマスターして一般のぶどうが作れるようになってから、ワイン用のぶどうを作り、ワインを作ればいいのではないか。つまり〈準備型〉で始めればよいのでは。」

と意見をいただき、会はお開きに。

とにかく、現状のぼくらでは「地域」で地域農業の担い手として認めてもらえられない、と。というか、「新規」就農者に対する支援なのに「実績がないので難しい」というのは矛盾しているような…?

ちなみに、この会合から間もなく、年度が変わり、会合に出席した組織の重要なポストの方は異動されたようです。

2012年3月〜10月 ぶどう畑に入る

とにかく、確保したぶどう畑。すでに昨年の収穫期から手付かずの荒廃状態。途方に暮れながら、ぼくらは最大限の時間を確保して畑に入りましたが、一つ前のエントリーのような「結果」。しかし、ぶどうの生態を知る、その緒を手にしました。

史郎も何度も畑に来ましたね。大阪から!

しかし、続けるには、収穫してワインになるまで、いろいろお金が必要です。なんとかならないか。行政の就農支援を受けるために他にやり残していることはないか・・・。

(後編に続く)

収穫2012

山中史郎さま

ぼくたちのマスカット・ベーリーAの畑にはビニールの屋根がなく、ほとんどすべての葉っぱも落ちてしまったので、遠くからでも、白い袋が並んでいるのがよく見えました。

畑の持ち主さんから撤収の催促がありました。賛同者の方やぼくの親を通じてそういうことを伝えられ当惑しました。なぜぼくに直接ではないのか。直接言わないということによって何かしらのメッセージを伝えようとしているのではないかと一瞬思いましたが、空しいので考えるのはやめました。

決して催促されたからではなく、ぶどうが熟れる時期が来たようなので収穫することにしました。史郎といっしょに作業できなかったことがとても残念です。

ベリーAの収穫は通常、袋に入ったまま枝から切り離します。だから枝にぶら下がった房をじかに見る機会がありません。せっかくなので房を枝につけたまま袋を外して写真を撮りました。

“収穫2012” の続きを読む

ベリーAの畑を返すことになりました

山中史郎さま

ぼくの番なのに、ずいぶんあいてしまいました。1ヶ月半。
しかもあまりいい話じゃないのです。

ぼくたちは今年2月にワイナリーを作ろうと思い立って、幸運にも、春から仁井山地区にある貴重なベリーAの畑を借りることができました。
しかし、残念ながら、持ち主に畑を返すことになりました。

持ち主に「返してほしい」と言われたのです。

まったくの力不足でした。
力とはベリーAを育てる努力のことです。

春に借りる時、
「もうここのぶどうは作らない。あとはほっとくだけだから、好きなようにすればいい。」
そういってもらって借りました。

ほっとくだけ、というのは、その通り、春までには剪定して切り落とすべき枝も、すべて残っていました。ぼくたちはまず急いで剪定からするほかないところから始まりました。何より木は生きているから。

ほっとくだけ、というのは、他にも、本来昨年秋の収穫前には取り除くべきビニールが、ぼくらが借りた今年の春にもまだかかっていました。もちろん、春一番とか、それ以前の冬の強い風の日とかに絶えきれず、ぼろぼろに破れていましたが。剪定の後は、ぼくらは方々に散らばったビニールを拾ったり、丸めたりしました。

台風並みの力が加わらないと、ビニールは破れません。だからそれを支える番線などもことごとく切れて、ビニールを張るトンネルメッシュが支えられない状態でした。

ぼくらは、素人なりに、ずいぶん、ぶどうの棚というのを観察しましたね。そうして結論を得ました。
「ぶどう棚は、最も隅の柱の番線が命。」
まず、畑の隅に、鉄杭を打ち込みました。あれはキツかった。でも、やりました。

それから少しずつトンネルメッシュを支える番線を張りました。初めて使う番線張りの道具、あれ、ハルーとか、張線器というらしい。途方に暮れる作業でした。ねじ式の杭、あれはよい商品でしたね。

しかしながら、結局一枚もトンネルメッシュを支え直すことはできませんでした。

そして、ぼくらにはビニールを張る時間がもうなくなりました。
それでも「ビニールを張れない」ではなく「ビニールを張らない」ことにしました。

農薬を使う時間もなくなりました。
それでも「農薬をまけない」ではなく「農薬をまかない」ことにしました。

そうこうしているうちに、ぶどうの木から芽が出て枝が伸びていきました。
しかし、まともにのびたのは、半数ほどでした。

ほっとくだけ、というのは、それは昨年からもうはじまっていたことなのでしょう。
まったく芽のでない(=枯れてしまった)木が1割ほどありました。
また、さらに1割ほどは弱々しい枝が途中まで伸びましたがそれっきりになりました。
そして、あと2割ほどは花がほとんど咲きませんでした。
加えて、1割ほどはやはり弱いので、花を摘んで実がならないようにしました。

雨が降りしきる梅雨空のもと、ただ眺めるしかない、むなしい時間でした。
このブログにも写真が残っていますね。きれいな葉っぱがまぶしいです。

しかし今はほとんど葉っぱがありません。
紅葉の季節を待たず、枯れて落ちてしまいました。

さて、こういうぼくらの醜態を地域のいずれかの農家の方が見ていたそうです。
そして、ぼくらではなく、畑の持ち主が、その方にずいぶん言われたそうです。

「あんなことして、ぶどうができるわけがない!」

よその畑のことをいうのは「いらん世話」ですが、まあ、その通りなんです。できませんでした。

畑の持ち主にはずいぶん嫌な思いをさせてしまいました。
ぼくたちはできるかぎりのことをしましたが、それでも足りなかったのです。
できることなら借りた畑で見返したかったですが、持ち主の心の傷は、今、痛んでいるのです。
痛みを感じるなら、それは本来はぼくらだけでいいでしょ?
ぼくらがすべきことは、その畑を今買うということ。
しかし、ぼくらができることは、この手を離すことしかない。
ただただ、畑の持ち主には申し訳ない気持ちていっぱいです。

畑を貸してもらったことで勉強になりました。
ぶどうのこともよくわかりましたが、それ以上に…。

ま、もういいでしょう。
はっきりいって理不尽な話ですが、それがこの「ぶどうの里青野」の現実=ぼくらの現実です。
いつかぼくらがよいぶどうを作り、よいワインを作り、よいワインのお祭りを作らないと、この現実は越えられない。

史郎は前のエントリーで、

「『このぶどう畑おかしいよ!』って言える時代」

と書きましたが、当然ぼくら以外ももちろんそういえる時代ということなのですね。この度、奇しくもぼくら以外によって証明されてしまいました。これ、受け入れざるを得ないよね。

『ぶどうという果物は、ここで作られるべきものなのか』

おかげでぼくはより強い決意を得ました。
史郎、ぼくは地域のより内部に入り込むという方法で、ぼくらの進むべき道を探すことを試みます。
どうか、命綱をしっかり持っていてください。ほんとうに、たよりにしていますからね。