2012年ナゴミカルな出来事まとめ【後編】

2012年6月 もうひとつのぶどう畑

八二五(はちんご)と呼ばれる場所のぶどう畑を借りられることに。うちの農地に隣接していて、以前からここでぶどう作れたらなと思っていたところです。何も植わってなくてぶどう棚だけ。ゼロからのスタートにはいい畑です。

2012年8月 井原市企画課にワイン特区申請を申し入れ

お金のことともう一つ、井原市がワイン特区にならないと、現状ではワイナリーのハードルは高すぎるので、これも実現させたいところ。井原市農林課に相談すると「特区の申請は企画課」ということで、史郎も同席して熱く語りました。

市役所の会議室。農林課と企画課。

「10月に国が特区申請を受付するので、その時が来たら連絡します」と企画課の方。
ぼくは、この言葉を「申請したらお知らせします」といわれたと思い込みます、10月まで…。

2012年9月 中国四国農政局に相談

3月の初会合がどうにも納得行かず、あれこれ考えて日が暮れて。ついに、国の出先機関である中国四国農政局に、「人・農地プラン」について相談しました。何度かメールをやり取りする中で、ぼくのほうから

「農業で集落を潰すのではなくて、農業で集落を守るのが「人・農地プラン」の目的ですよね?」

と確認したところ、それに対して担当の方からは、

「あくまでも、プランを作るのは集落の方々です。農家の方々が主役であり、市役所はその計画づくりのお手伝いをしています。集落の意向が集落単位であれば、相談に応じてくれると思います。」

という返答。

また、広域な例えば複数の町をまたがるような「人・農地プラン」については、

「国の基本的な考え方、私、個人としても、プランの作成の範囲は、集落若しくは複数集落がベスト」

とのこと。

仁井山地区の「人・農地プラン」つくりたいなあ。もう、お金云々は置いといても。

 

2012年9月 岡山県産業振興財団「きらめき岡山創成ファンド支援事業」

応援してくれる方から情報をいただき、なんか場違いかなと思いつつ、岡山県産業振興財団「きらめき岡山創成ファンド支援事業」の説明会に参加。「地域産業資源活用・域外への発信事業」にいくらかお金を出してくれるということなので、

「ぶどうの産地にワイナリーを作りたい。技術を得て話を進めたい。そのためにお金が必要。」と説明すると、

「まわりの巻き込みが足りないんじゃないですか?例えば、ワイン用ぶどうを作る農家の組合を作るとか。というか、地域の資源を活かして儲けていただきたいわけですから。」

「あんたその学力でこの学校受ける気?」みたいなことを入試説明会で言われちゃった感じかな。まだ幼稚園にも行ってない赤ん坊みたいなものなので泣くしか無いです。今は精一杯泣きます。

2012年10月 土地改良区の理事長に相談

どうすれば「地域」に、ナゴミカルがこれからこの集落を農業で支える者として認められるのか。

両親に、まず近所の誰に相談したらよいか聞いてみました。

最終的に「人・農地プラン」に太鼓判を押すのは「検討会」なる組織。
検討会は「地域農業再生協議会のメンバーであるJA、農業委員会、土地改良区等関係機関のほか、大規模個別経営、法人経営者、集落営農の代表者等が出席し、そのうち概ね3割が女性」という条件で構成される。

両親と作戦会議して、母の同級生(元市議会議員、現在、土地改良区の理事長)が仁井山地区に。ならば、彼に話をして、彼に仁井山地区の農業者を集めてもらって「人・農地プラン」の話をする機会を持つのがよかろう、ということに。

早速電話して、相談のアポ。後日、ご自宅に伺って、4時間話しました。うち3時間45分は彼の10代の時から70歳現在までの仕事についていろいろ聞かせて頂きました。最後の15分、ぼくは自分のワイナリー構想を話しました。彼はこう言いました。

「青野でワイナリー?無理無理。」

それで彼との話は終わり。いろいろ興味深い話はたくさんありましたが、ぼくはなんか地域のいろんなものが一気に見えてきた感じで、この時点で〈経営開始型〉の支援を受けることをひとまずあきらめました。「給付金」のために動いても「地域」は動かない。「自分だけいい思いをしようとしている」と思われるのが関の山。

2012年10月 岡山農業普及指導センターに相談

さて、それでもしつこく青年就農給付金。

〈経営開始型〉とは別に〈準備型〉というのがあります。「地域」ではなく「個人」です。受入機関(JAや先進農家)に研修に行って、その研修期間(2年間)に給付するというもの。青野の場合は、岡山県がJA岡山西を受入機関として指定しています。
3月の会合では、井原市農林課の方が「まずは、青野の標準的なぶどうを作れる農家になってもらってからがいいんじゃないですかね」といわれていました。それがこの〈準備型〉のこと。遠回り過ぎるというか、〈経営開始型〉じゃなぜダメなんだと思っていたので3月の時点ではスルーしていました。が、地域が絡む〈経営開始型〉は行き詰まったので、じゃあ個人が対象の〈準備型〉でいくならどうするか、どう出るかと考えました。

まず事実。青野地区ではサッポロ岡山ワイナリーにワイン用ぶどうとしてのベリーAが出荷されています。これはJA岡山西とサッポロ岡山ワイナリーの契約によるものですが、とにかく「青野地区でワイン用ぶどうは栽培されている」。研修受入機関であるJA岡山西で青野でワイン用ぶどうの研修は可能じゃないのか、と。

そこで、岡山県農産課に電話。「地域にワイン用が栽培されている実績があるなら、可能性はあると思うが、具体的な相談は岡山農業普及指導センターに」とのことで、すぐに、普及センターにアポを取って乗り込みました。

「いい夢を描いておられますね。応援しますよ。」話のわかる担当の方(3月の会合の時から異動があって初対面)。

「しかし、研修の条件や内容は受入機関が決めることなので、希望通りの研修が受けられるかどうかはわからない。」
「いずれにせよ、〈準備型〉の話として、井原市農林課へ連絡します。」

2012年10月 井原市役所で会合

まもなく、井原市農林課から連絡。会合には、井原市企画課、農林課、岡山農業普及指導センター、ナゴミカルの4者。

まず、企画課から「ワイン特区の件ですが、1月に申請する予定で」。えっ?今日は「申請した」って話じゃないんですね…。さらに「これからの計画を書いて欲しい」と。それいうだけなら、もっと早く、電話とかで言って欲しかったな。対応がちょっと間延びした感じがする。特区申請したくないのかな?ひとまず「すぐ書きます。」

次、農林課。「〈準備型〉の件ですが、研修は最短で平成26年度から」 え、次の春(平成25年度)からじゃあないんだ・・・。
加えて、普及センター。「〈準備型〉から〈経営開始型〉への連結は平成25年度内で」「平成26年度以降の連結は予算が決まってないので約束できない」・・・じゃあ連結などできないということになりますね。
さらに、研修期間中に農産物(や加工品)を販売すると就農しているとみなされ給付金は遡って返納!つまり、研修中の2年間、農業での収入は得られない。

〈準備型〉の給付金(150万/年)だけで事業の〈準備〉は当然できないし、それで家族を養えるわけもない。
そこで質問。

「現在の仕事も少し続けながら兼業状態で研修を受けざるをえないのですけど、例えば週7日のうち金曜日だけ今の非常勤講師の仕事をして残りの6日間で研修を受けるというのは可能ですか?」

農林課「研修の受入機関が認めるかどうか。」

ひとまず頭真っ白で、この日はお開き。

後日、農林課「研修の受入機関であるJA岡山西から〈副業は認められない〉との連絡がありました」。

さて、これで、今年度と来年度、行政の新規就農支援の条件をぼくらが満たせないので受けられないということが確定です。

まとめると、現在の行政の就農支援というのは
「(このご時世に)500万~1,000万ほどの2年分の生活資金と就農資金を余分に準備できる人」
を対象としているようです。例えば、団塊の世代が当てはまります。

いったいどういう人たちがこの就農支援の制度を設計し現在の形にしたのでしょう?

2012年10月  「畑を返してほしい」

農薬やめてみなはれ、ビニール張るのやめてみなはれ、というぶどう畑ではぶどうができないと思っているぶどう農家さんは地域にたくさんいます。というかすべてかも。で、そうした人がナゴミカルのぶどう畑を見て(あーあ、だめだこりゃ)と心のなかで思ってくれてる、だけなら何にも問題なかったのですが、

「あんたのぶどう畑、わやじゃ」(※わや=めちゃくちゃ)

というようなことを、あろうことか、ナゴミカル本人ではなく畑の持ち主にいう人がおったそうでして(それが誰かは知らされず自作自演の可能性も無くはないのですが)、とにかく、みんなと同じにせず波風立てることを良いと思わない習慣に生きている人たち、ま、言う方にも言われる方にも免疫がないのでしょう。

「畑を返してほしい」

と、持ち主より、人づてで伝わって来まして。人というのは応援してくださっている市議会議員さん。力を持っている人の使い方については、昔からの田舎の人は心得ている。なるほどこれが「地域」なのだな。

こちらのエントリーのように、マスカット・ベーリーAを300kg収穫の予定が30kgしかありませんでしたが、なるほど、ゼロにはならないのだとしっかりと学ばせていただきまして、ゴミを拾って、お返ししました。

持ち主の方、ずいぶん傷ついておられるようで、冠句にまで詠んでおられました。かわいそうに。

しかし、この秋は色々ありました。まさに収穫期、大豊作です。

2012年12月 「青野ワイナリー構想」

企画書(青野ワイナリー構想)を井原市企画課に提出しました。いろいろと相談にのってくださっている市議さんと部会の方にも同じものを。

以上、2012年のまとめをしてみました。
事を始めるにあたって利用できる制度は利用していけばいいと思っていろいろ動きました。お金は得られなかったけれど、動いたことでコンセプトがかたまりました。さ、これからです。

2012年ナゴミカルな出来事まとめ【前編】

山中史郎さま

昨年12月、井原市役所企画課と農林課に企画書を提出してきました。

ナゴミカルは、井原市にワイン特区を国に申請するよう申し入れました。市はぼくらがやろうとしていることを文書にして示すよう求めてきました。その文書の内容をみて特区を申請するかどうかを考えると。

特区の受付は1月と聞いていたので、もう連絡があってもいいのですが、今のところ何もありません。

その企画書では、この1年間で経験したことを踏まえて言葉を書き連ねました。

【概要】青野ワイナリー構想
【詳細】『ぶどうの里100年』に向けて −〈青野ワイナリー構想〉のための考察

ぼくは、この1年間、地域の関係者と話をする中でまさに「地域」の観念をめぐったように思います。関係者といっても、結局、実際に関係をもつには至っていないけれども。それはつまり「地域」の観念を共有するに至っていないということにもなるのかな。

自分が地域とどのようにかかわろうとしているか、自分には地域がどのように見えているか。

地域の観念を共有することがワインを作ることの前提なのか、逆にワインを作ることが前提なのか、ワインを作ることと「地域」の観念を共有することがコインの両面なのか。

ま、本来そんなこと、勝手にしやがれってことなんだと思いますが、ま、お互い無関心ってのもよろしくないわけで、ま、とりあえず、ごあいさつはできたかなと。

ま、これからですね。

というこで、この1年間(思いつきからは2年がたってますが)を振り返ってみようと思います。

2011年1月 思いつき

ぼくはこのぶどうの産地である青野で、ワインを作ったらどうかと思い立ちます。地域住民としての思いつき。それまでぼくはこの地域で「ぶどう以外」の生き方を模索して来ました。小麦作って、パン焼いたり。でも「あえてぶどう」にいかなきゃならないと。家から「地域」に一歩出るには「あえてぶどう」がいいと。ここの人々はぶどうという眼鏡をかけて「地域」を見ている。ならばぼくもその眼鏡をかけてみようと。

2011年8月 ナゴミカルなはじまり

ナゴミカルは、史郎がfacebookに投稿した写真のコメント欄でのやりとりがすべてのはじまりでした。初心忘るべからず。これ、消さないで残しておいてくださいね。
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=243597659004038

で、まもなくfacebookに「青野で地ワイン!」という非公開のグループを作りました。

2011年12月 ぶどう農家と忘年会

市販のワインと手作りのピザで忘年会を企画し、井原市JAぶどう部会の幹部農家さんを招いてお話を伺いました。礎会という若い農家さんの集まりの会長ご夫妻、Uターンしてぶどうを始めようとされている方も来てくださいました。

青野にぶどうがたくさんある。その一部を青野でワインにしてはどうかと。で、帰ってきた最終的な答えは、

「自分たちでぶどうから作って、ワイナリーも作って、そうしてワインにするなら誰も文句は言わないだろう」

ぼくははじめこの意味することがわかりませんでした。「青野にぶどうはたくさんあるから、じゃあ次はワイナリー作らないとね。ワインはどうやって作るの?」という返事がくると思ってたんです…。青野という産地を産地たらしめている農家のぶどうは、簡単には使わせてもらえない。何やら複雑な大人の事情が見えました。

ま、青野でワインを作って、青野にそれを楽しむ場所を作る、実現したら「いいね!」という共感は得ました。

2012年2月 廃園にするぶどう畑をゲット

それで、ぼくらはその返答を真に受けて、じゃあ、ぶどう農家になろうということになりました。それ以外に道はないだろう、と、多分。

たまたま、古いマスカット・ベーリーAのぶどう畑を廃園にするという農家が近所にいて、ぼくらの計画も話して、好きに作っていいことになりました。実にあっけなく、ぼくらはぶどう農家になれることになりました。が・・・。

2012年3月 行政、JAを交えた新規就農に関する会合

お金がない。既存の仕事を持ちながら、農家の仕事も進めていかなきゃならない。そこで渡りに船。どうやら行政から新規就農に対する支援が受けられるかも、ということで、じゃあお願いしようと。

ぼくらが受けようとしたのは国(農水省)が2012年1月に始めたばかりの青年就農給付金というもの。
〈準備型〉と〈経営開始型〉の2種類があります。〈準備型〉は就農前の農業技術の研修期間中の給付金、〈経営開始型〉は農業を始めて間もない時期の給付金。

ぼくらは農業技術について確かなものを何も持っていないけれど、すでに農地を確保したので〈経営開始型〉で申し込みます。〈経営開始型〉の給付金を受ける条件は、地域(集落)農業の担い手(中心経営体)として「地域」に認められる(=「地域」の話し合いで「人・農地プラン」を作成しその中心経営体のリストに名を連ねる)こと。中心経営体とは、これから5年間で規模拡大を計画している農家ということ。

ぼくらの活動拠点は青野町の仁井山地区。高齢の農家ばかりで、ぼくら以外に規模拡大なんてしようと考えている農家はいない。だからどんなリストになるのか簡単に想像がつきます。

井原市農林課にこの支援を受けたいことを申し出て間もなく、ぶどう部会幹部の方から連絡があり、会合を開いていただきました。JA、県の普及センター、井原市農林課、井原市JAぶどう部会から各数名ずつ、いわゆる農業関連組織との初顔合わせです。

ぼくらは正直に「農業もワイン造りも、あるいは飲食店経営についても、当然これからはじめる素人ですが、「食」と「文化」で青野の地に人を引き込む農業をして「ぶどうの里青野」の地域ブランド再興を目指します」と述べました(のちにそういう事業のことを一般には6次産業と呼ぶことを知りました)。

しかし、

「農業の実績なし、飲食店経営もなし。それでは〈経営開始型〉は難しい(=「地域」に認められない)のではないか」
「慣行農業をマスターして一般のぶどうが作れるようになってから、ワイン用のぶどうを作り、ワインを作ればいいのではないか。つまり〈準備型〉で始めればよいのでは。」

と意見をいただき、会はお開きに。

とにかく、現状のぼくらでは「地域」で地域農業の担い手として認めてもらえられない、と。というか、「新規」就農者に対する支援なのに「実績がないので難しい」というのは矛盾しているような…?

ちなみに、この会合から間もなく、年度が変わり、会合に出席した組織の重要なポストの方は異動されたようです。

2012年3月〜10月 ぶどう畑に入る

とにかく、確保したぶどう畑。すでに昨年の収穫期から手付かずの荒廃状態。途方に暮れながら、ぼくらは最大限の時間を確保して畑に入りましたが、一つ前のエントリーのような「結果」。しかし、ぶどうの生態を知る、その緒を手にしました。

史郎も何度も畑に来ましたね。大阪から!

しかし、続けるには、収穫してワインになるまで、いろいろお金が必要です。なんとかならないか。行政の就農支援を受けるために他にやり残していることはないか・・・。

(後編に続く)

収穫2012

山中史郎さま

ぼくたちのマスカット・ベーリーAの畑にはビニールの屋根がなく、ほとんどすべての葉っぱも落ちてしまったので、遠くからでも、白い袋が並んでいるのがよく見えました。

畑の持ち主さんから撤収の催促がありました。賛同者の方やぼくの親を通じてそういうことを伝えられ当惑しました。なぜぼくに直接ではないのか。直接言わないということによって何かしらのメッセージを伝えようとしているのではないかと一瞬思いましたが、空しいので考えるのはやめました。

決して催促されたからではなく、ぶどうが熟れる時期が来たようなので収穫することにしました。史郎といっしょに作業できなかったことがとても残念です。

ベリーAの収穫は通常、袋に入ったまま枝から切り離します。だから枝にぶら下がった房をじかに見る機会がありません。せっかくなので房を枝につけたまま袋を外して写真を撮りました。

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