夏休みの宿題は「ぶどう畑の死を認識する」!?

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山中史郎くん

ようやく大量の雑草を刈り倒すことができました。

梅雨を経て、むんむんと息苦しい気候に雑草は爆発的に茂りましたね。
梅雨の前に一度刈ったのだけど、再び背丈ほどにも伸び、
刈らなければまだまだ伸び続けそうな勢いでした。

また、ぶどうの様子も変です。元気がない。

史郎くんが言うように、
単に地域のぶどう畑を、その管理方法を含めて、そのまま受け継ぐというより、
ぼくらの表現活動の根本にかかわるような、
何かしら自覚すべき風土のありように接触した気がします。

ぼくの前回のエントリーでは、
雑草はまずは歓迎すべきことのような気持ちを書きました。
いずれ、栄養たっぷりのぶどうの実を、畑から外にだすのだから、
草が生え、それによって生き物が増え、生命の蓄積がなされるなら、
ぶどう畑にとってありがたいことだろうと。

しかし、この度、史郎くんと草を刈りつつ、ぶどうに目をやると、
あきらかに弱ってますね、ぶどう。

草がたくさん生えたのがその原因なのか、
草が元気に生える気候がぶどうにとってはしんどいのか、
どちらかはわかりませんが。

葉っぱにはカビのようなものがついて茶色く枯れています。
ぶどうの粒の、特に頭には、べとっとした黒い汚れがついていたり、
かさかさになっていたり。
房の中心の軸には白いふわふわしたものがあって、
それをまとってぴょんとはねる虫。
蟻もなんだか喜んでウロウロしています。
それらは限られたぶどうの木で起きているわけじゃなく、
ほとんどすべての木で目撃することができます。

少なくとも、ぼくらの借りたこの畑のぶどうにとっては、
蒸し暑いこの気候が生長のためになくてはならない気候である、
とはとても言いがたい。
むしろ、非常に大きなダメージを与える、
出来うるなら避けるべきもののように思います。
しかも、絶対避けられない!

ナゴミカルの夏休み課題図書。
和辻哲郎『風土 -人間学的考察-』を読むと、
さらにその思いは強まってしまいました。

例えば、岩波文庫版初版、31ページ。

「しかるに湿潤なる自然の暴威は横溢せる力(生を恵む力)の脅威であって、自然の側に存する『死』の脅威ではない。死は人の側にある。横溢せる生の力が人間の内にひそむ死を押し出そうとするのである。人間はおのれの生の力をもってその生の根源たる力に対抗することはできぬ。」

ぶどうという果物は、ここで作られるべきものなのか、
もはや、そんな疑問がぼくの中にはわいています。
素人だからこその飛躍もありえますが、
ともあれ、その問いを能動態に書きかえれば、
ぼくがここで作るべきものなのか、ということになります。
何か、こう、根本的なところに大きな否定が生じています。。。

そんな中、史郎くんから、

「今回5日間連続でふどう畑に入った事での気づき。僕たちが手に入れたこの1アールのぶどう畑が、今僕たちがやろうとしている方向と一致していない事。」

というダメ押しエントリーです。

なんか、おかしい。
なんか、無理がある。
ぼくらは素人で、十分な経験や科学的根拠があろうはずがないけれど、
自分たち自身で見て触れて関わった物事を、感覚としては明らかに否定したがっている。

ファクトリー。そうですね。畑じゃなくてファクトリー。
つまり「施設」なんですよね。
施設って、元来不自然、反自然なものです。
それ自身、壊れたら生命の海に帰らない産業廃棄物の山です。

ぼくらが借りたぶとう畑は、ぶどうがそこに植わっているだけではない、
そこに人の手でもう1つ別の「自然」を作り出さねばならない、
そういう非自然な目的を明らかに持っていて、
しかも、その目的を達成することが不可能なまで崩壊している、
緑の死んだファクトリーなのです。

草を刈っていても、そこかしこに、
黒いビニール紐の切れっ端、錆びて切れた番線、丸められた大量のビニール屑があり、
いちいち草刈機に巻き付いて作業が進みません。
ペットボトル、一升瓶、一斗缶、倒れたコンクリの支柱、切りっぱなしのぶどうの木、半世紀の間一度も使われない畑地灌漑用水路の水道管、
草に隠れて見えないそれらと、高速回転している草刈機の円盤が接触すれば、
大きな音を立てて縁のチップが弾け飛びます。
ただでさえ十分な時間のないぼくらなのに、
そういう出来事にいちいち手を止められ、
なにか変だと思いながら、畑にいましたね。

仁井山地区で奇跡的にベリーAが植わっている、
そのことだけをたよりに、このぶどう畑を手にいれました。
ぶどうの木は確かに枝を延ばし葉を茂らせ実をつけているけれど、
ここは施設としては既に死んでたんですね。
あるいは、ビニールをかけない、農薬を撒かない、
そのことによって、ぼくらはぶどう畑に自らトドメを刺してしまったのかもしれません。

ぼくはベリーAというぶどうが、
この地域をぶどうの里にしてくれた歴史を知っているので、
特に古い木に対しては思い入れが強いのです。
しかし、もう、本当は死んでいるのかもしれない。
あるいは、ぼくらのやっていることは、
否定的な意味での延命治療に過ぎないのかもしれない。

これは、もはや「ベリーA」ではなく「野ぶどう」だと、
「栽培・収穫」ではなく「採集」の対象だと、
今年はそういうことにして、
ひとまず退散ということにしますか?

袋かけを続けるのが嫌になってるのはこの際棚上げして、
ナゴミカルは作戦の練り直しが必要だと思います。

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