「シェア」と「消費」の間

山中史郎くん

先日の家族ぐるみの京都・大阪旅行では、お世話になりました。

帰ってみると、ここ数日の天気の良さで草がすごいことに。。。
畑に入れません(笑)

ナゴミカルの正大道Vine Yard。
ここでは、ぶどうと共に草が育っています。
ぼくはこんなに大量の草が茂ったぶどう畑を見たことがありません!

大丈夫なんでしょうか?ナゴミカル。。。

この草たちはぶどうの木と同じ土に根を張り、栄養分を吸い上げている。
そして両者とも太陽光で光合成をして自ら栄養を作っている。

ぼくらは7月の終わりにこの草を刈ろうとしています。
草を刈って土の上に置いておくと、
間もなく枯れて、腐って土に帰っていくでしょう。
もともと土の栄養分を吸っただけなら、ただ戻るだけです。
でも、光合成もしているので、土には以前より多くのエネルギーが帰っていきます。

草を刈ると、土と草の間では、小動物や微生物の爆発的な活動がはじまります。
みんなでよってたかって草を食べて排泄するんです。
虫たちは光合成をしませんが、彼らもまた畑で死んでいきます。

草はシェアの人生。
生産され、蓄えられるエネルギーとしての自分。オーガニック太陽光発電。

虫は消費の人生。
草を食べ、排泄して分解支援。
より大きな生き物のための蓄電池としての屍。
うんこ農家。

微生物は間の人生。
うんこ料理に腕を振るう生命の母。

畑は生命の海!ぶどうもナゴミカルもただそこに浮かんで遊んでるだけ。。。
草刈り、楽しみですね!

「「シェア」と「消費」の間」への2件のフィードバック

  1. 素朴な疑問。大地は、大きくならないのか?草や木が根から吸収する水分以外の栄養素の質量と光合成を繰り返し大きく育った植物の質量は、明らかに違うような気がしますが、草や木が、枯れて土に返っても、大地が大きく育つ感覚が無いのが、不思議です。草は、水分を除くと小さくなりそうですが、木は、相当の質量に育っていそうです。

    1. 自分たちが再生産されるのに必要なだけしか自分たちを生産しないから、というのが答えとなるかと思います。

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