前衛としての芸術環境

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山中史郎君

否定の前提として対象を認める必要があります。
否定の結果として抽出される対象があります。

対象からおいてけぼりにならないようにするには。。。

この前NHK AMで日本美術の見方を紹介していました。
日本美術には「奇想」というのがあるという話で、
「これは系譜であり、異端ではなく主流の前衛だ」と、
そういう考え方があるそうです。
なるほど、そういう方便もあるのだなと思いました。

「デュシャン」により芸術から芸術が抽出されました。
既存の芸術の「あとに」芸術を位置づけたのです。
だから前衛でした。

流れを汲む、時間的に「あとに」位置づける、それが「前衛」。

だとしたら、これからは、
既存の芸術を否定したり、
芸術から芸術を抽出するのは、
もう古いとするのを、
つまり、芸術を「拡散する」のが前衛ではないでしょうか。

芸術を原形をとどめないまで粉々にして、
場所に忍びこませ、場所を変異させる。
その変化の只中に自分も拡散させる。

詩的に全体としてよくなっていけば、
あ、芸術は(見えないけど)生きてるなと、
芸術環境だなということになるんじゃないかな。

畑、パン、ワインに微生物。
地域にナゴミカル。

田植えには、田植え用の長靴。
あ、これは業務連絡。
こっちで買いますか?
コメリで1480円です。

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